◆ Contax II


    Contax II, body-s/n:Z50507
     19世紀のダゲレオタイプから始まった写真の近代史が、たったひとりの技師の手によって大きく変えられようとしていた、古き良き欧洲、大戦間時代。細かな経緯はどうあれ、オスカー・バルナックの小型カメラは、大恐慌時代を挟んで着実に写真世界の中に、その地歩を固めつつあった。人々の写真に対する認識を、徐々にではあるが疑いもなく変化させていこうとしていた、そのバルナックとライツの小型カメラ-----ライカに対抗するかのように、時の光学産業の一大コンツェルン、ツァイスが、小さな怪物コンタックスI型を投入して35mm判小型カメラ市場に名乗りを上げたのは、オーストリア生まれの元貧乏画家が、大ドイツの政権を最初に握った翌年のことである。
     コンタックスI型は、確かに大ツァイスの面目躍如たるものであった。しかしながら、徹底して先人の模倣を嫌ったその独創性は、技術者にとって価値ある独創性であったかも知れないが、使う側からすれば単なる独善とも傲頑とも云えるものに過ぎず、ライツが、ツァイスの実験には関わらないようにしよう、と呼びかけたのももっともなことである。実際、1934年の最終仕様に落ちつくまでの細かな仕様変更は、正に実験そのものであったと云えなくもない。偉大なる先達、ライカにとって、本当の強敵が現れるのは、1936年のことであった。

     コンタックスII。人類がこれまでに手にしたカメラの中で、最も美しいフォルムを持つこのカメラが、初めて世間の目に触れたのは、36年の春、ライプツィヒの見本市会場でのことである。コンタックスIによる、3年余りに亙った現場実験の結果、フーベルト・ネルヴィンと、恐らくはハインツ・キュッペンベンダーとの指導によって完成を見たツァイスの新兵器は、旧型の欠点を払拭した上に、更なる改良と新機軸を織り込み、加えて洗練された容姿を持つ、小型カメラの貴公子とも呼ぶべきものであった。
     コンタックスという名前が誇る長大な基線長は、I型に比べて若干短くなったというものの、なお8cm余りあって、かつて黒色エナメルのうちに埋没していた間隔の広い2つのファインダー窓は、今やはっきりとクローム化粧地の中に出現した。左右で大きさの違うその2つの窓は、不思議と破調を来さずに、距離計副対物窓側の迫り出したフォルムと、その描くJ字の曲線とによって、そしてまた、新たに左の前身頃に現れた、自働レリーズレバーの垂直に収斂するベクトルとによって、危うい均衡美を見せている。加えて、軍艦部上に設置された2つのノブは、向かって左側の巻き上げノブを一段高くすることで、ともすればビューファインダーの巨大な対物窓が惹き起こす右側への偏重を、微妙なバランスで逓減するのに貢献していると云えるだろう。
     戦後のコンタックスIIaが、より小型により軽量化され、道具としての完成度を高めたことは、確かに疑い得ない。だが、その代償として、機械としての美しさを、かのシュツットガルトの少年は喪ってしまった。平板な前身頃、小さすぎる副対物窓、より操作し易くなった代わりに、単なる部品のひとつに零落した2つのノブ。いかに機能美とはいえ、美は常に、何かしらの無用でまた煩雑な要素を、その本質の裡に有つものである。バッテリーボックスのようなバルナック・ライカとも、小型無線機の如きブラック・コンタックスとも違う、銀色の光沢と黒革の外套を纏った戦前のコンタックスIIの外観は、それを有つ者の審美眼の確かさを――写真を撮る技量はともかくとして――保証するかの如く、遠く戦乱の雲沸き立ち登る1930年代後半にあって、ドイツ工業製品の粋を、余すことなく体現しているのである。
     もちろんそれは、写真を撮る道具としては、依然として隠し切れぬ機械の傲慢さと、設計者の独善的な思想とによって、決して完成されたものとは云い難い。金属製縦走りフォーカルプレンシャッターの、表向きの堅牢さと表裏一体になった脆弱さは、I型と同様のものであったし、そのI型が謳っていた犯罪的に長い有効基線長も、一眼式ファインダーという、ライカが20年後に漸く導入を決意する革新の犠牲となって、数値的には見栄えのしないものとなってしまった。また、惨々たる不評の結果、軍艦部上に移された一軸不回転シャッターダイアルと兼用の巻き上げノブも、人差し指の腹で巻き上げるには余りに重すぎて、相変わらず持ち変えて操作しなければならない点においては、I型の不便さとそう変わるところはない。
     それでもなお、使う者に適度の緊張と覚悟を強いるその姿勢は、端正な外観とともに、機械の有つ美の本質を過不足なく表現している。その点、ライカは完璧なまでに馴致された機械であって、凡そ使用者に刃向かうことのない、主人に忠実な奴隷である。使うほどに手に馴染み、所有者のあらゆる要求を確実にこなす、麗しき下僕。ライカが女性的で、コンタックスが男性的であると云われる所以は、そのフォルムもさることながら、実にここにあると云っても、あながち穿ったもの云いではあるまい。
     かつてライカは、写真のエキスパートにとって、最も信頼のおけるカメラであった。今日でもそれに変わりはない。プロにせよアマチュアにせよ、写真を良く知った人間の傍らには、ライカの姿があった。だが、ライカが神話化された現今では、その主従が逆転しつつあると云えないだろうか。熟練の写真家のそばにライカがあるのではなく、ライカのそばに写真家がいるのである。要するに、写真を知悉しているからライカを使用しているのではなく、ライカを使っているから写真に通暁しているように見える、ということだ。それは皮肉にも、ライカが従順な奴隷であることを止め、主人の社会的評価を一手に握る、影の支配者となりおおせたかのようでもある。
     現在のコンタックスに、それがないという訳ではない。日本写真工業界を代表する日本光学工業が、その呪縛から抜け出せなかったように、戦前からツァイスは、無視し得ぬ光学工業の巨人であった。ヤシカ、京セラに続き、世界のソニーまでもがツァイスのレンズを標榜するようになって、大ツァイスの後光は一段と輝きを増したかに見える。しかしながら、いかに光学産業の雄とは云えそのカバーする領域は余りに広く、一般の人々にとっては見知らぬ大海にも等しい。一方、ライカは、35mm判小型カメラという特殊な領域において、しかもその黎明期と発展期に、他を抜きんでて令名を轟かせた。代名詞と化するには、十分に過ぎるほどの範囲の狭さと、功績の大きさである。
     かくて、ツァイスの名が有つ輝きというものは、ライカの放つそれとは趣を異にする。殊、アマチュア写真界に関して云えば、ツァイス・レンズの愛用者は、写真を理解している人間というよりも、御威光好きの流行人間と見られる嫌いがなくもない。もちろん、そういった人々もいないわけではない。だがそれで、流行とは無関係にツァイスの描写を好む人間が迷惑するかどうかは、別の問題である。そしてまた、賢そうに見える莫迦者と、莫迦に見える賢人とでは、いずれが優れているかは論を俟たぬ。

     コンタックスIIは、紛れもなく世界で最も美しい機械のひとつである。その端正なまでに直線的で、かつまた馴れ馴れしく近寄る者を一蹴するが如き峻厳な面立ちは、人間工学の美名の許に、あらゆるものが女性化してゆく昨今の風潮の中にあって、未だ色褪せぬ魅力をもって、我々の前に存在し続けてゆくであろう。



    PORTICVS-indexへ戻る
    Text and Photo : (C)1999 Takanashi Yoshitane.
inserted by FC2 system