◆ Herar 3.5cm/F3.5


    F11 1/125, Herar 3,5cm/F3,5+Kiev III, Tri X, 06/1999
     戦前戦後を通じて、20世紀の写真用光学レンズ制作技術上、恐らく最大の貢献は、1935年頃にアレクサンダー・スマクラ博士によって為された。すなわち、反射防止コーティングである。それまでレンズの空気境界面における反射減光と、副次的に惹起される内面反射によるコントラストの低下とは、常にレンズ設計者を、そして写真家たちを悩ませてきた。界面ひとつにつき約5%の減光は、あるいは不可避のものとして織り込まれ、大多数の人々には諦観されていたのかも知れない。コンタックスシリーズによってライカの帝国に挑んだ大ツァイスの用意したレンズ群は、どれも4群を超えない構成を有っていた。要するに、それ以上のエレメントを擁することは、ツァイスの欲する高性能レンズには適さないということだ。
     ところが、レンズ表面に弗化化合物の薄い膜を蒸着すると、反射率が大幅に逓減されることが判明し、これがツァイスの「Tコーティング」として1936年、ドイツ特許を取得する。光学技術が軍事に密接な関係を有っていた当時(某帝国陸軍の殺人光線兵器研究はたちの悪い国家的冗談だとしても)、明瞭な画像を得、またより多数の群構成を採って優良なるレンズを制作するに有利なスマクラ博士の発明は、当然にも極秘に取り扱われた。Tコーティングされたレンズは主として軍需用に生産出荷され、少なくとも戦前・戦中期、民生用としてはほとんどか、あるいはまったく出荷されなかったものと推測される。
     一方、界面反射による画質低下を極力抑えようとするもう一つの動きが、ほぼ同時期にあった。1934年の暮れ、ツァイスの技師S.フーバーはわずか2群のみから成るレンズ設計の命を受け、翌年末、2つの特許を取得した。これが2群4乃至5枚から構成される、ヘラーである。戦前に出版された文献によれば、ヘラーの前群は3枚の張り合わせメニスカス、後群が1枚乃至2枚張り合わせ凸レンズで、それぞれF2,8またはF3,5の明るさを得た。後群1枚のF2,8タイプはテッサー型よりも球面収差が大きかったらしく、望遠用には不向きと判断され、実際に試作検討されたのは焦点距離3,5cmの広角サイドであった。このうちテッサー型よりも良好な結果を見せた(といわれる)F3,5のヘラーが、恐らく戦争に入る直前、少数生産されたと思われる。
     いまだ反射防止コーティング技術を知らぬ一般写真界にあって、本レンズはある程度の期待を持たれたようであった。3,5cmでF3,5というスペックは、当時にあっても決して目立つほどのものではない。すでにビオゴンのF2,8が他を圧倒して光彩を放っていたし(価格の上でも、だが)、その一方でオルトメター3,5cm/F4,5という廉価版――とはいっても十分実用的な性能を持つ――の広角レンズも存在した。ベルテレの高性能広角レンズにとって代わることはないにしろ、空気境界面4つ(ビオゴンは8つ)という魅力が、恐らくフーバーの新レンズを焦点距離35mmのレンズ群のなかで、次席に着かせることになったかも知れない。だが、ときは既に戦乱のさなかにあり、あらゆる工業が軍需第一となる世情、ヘラーの発展は阻害された。さらに第3帝国の敗北によってコーティング技術が公になると、もはや少数群構成による反射率逓減の意義までもが失われた。F3,5の明るさではテッサー型のニッコールが十分な性能を示し、わざわざ高度な貼り合わせ技術を要するヘラータイプに固執する必要もなくなったのだ。
     かくて、より複雑で4群から成ってはいたが、F2,8の開放域から高性能を示したビオゴンが再構成されて、同焦点距離レンズの王座と、そして大ツァイスの面目を引き続き保持することに成功した。ヘラーは、生まれるのが遅すぎたレンズ、あるいはひとつの徒花と云えるのかも知れない。

    追補:筆者がこれまでに見聞したヘラー(6個)のシリアルはすべて2641000台であった。最も大きい番号が2641417で、500を超える番号のものはまだ見たことがない。2641000台のヘラーではないレンズが発見されればもう少し限定はできるのだが、それでも恐らくは、500個というのが現実の生産数に近い数字だと思われる。
    追補2:Hartmut Thiele氏が2003年に上梓したイエナレンズリファレンスによれば、推定生産本数は1,000本である。


    PORTICVS-indexへ戻る
    Text and Photo : (C)1999-2004 Takanashi Yoshitane.
inserted by FC2 system