◆ 戦前の3本の2/5cmレンズ

     ツァイス・イコンが35ミリ判小型カメラの偉大な先達ライカに挑戦したコンタックスは、結果的にボディでは敗北を喫したけれども、大戦終結までの13年間、常に技術的に優位に立ち続けた一群のレンズを擁していた。1932年にお目見えした3本のゾナー、2本のテッサー、1本のトリオターのうち、中でもF2とF1,5の5サンチのゾナーは、その驚異的な明るさ(欧米では速さと云うが)で一世を風靡し、ハコで遅れをとったツァイスの面目を保ったのだ。

     ほぼ独学でレンズ設計者となったルートヴィヒ・ベルテレは、1923年にトリプレットを改良したF2エルノスターによってその才能を開花させていた。このエルノスターの第2、3群間の空気間隔をガラスで埋めることで、より高次の補正をきかせたのがゾナーである。最初の設計では後群は単エレメントだったが、すぐに貼り合わせダブレットとなり、これがF2ゾナーとして1932年、世に出ることになる。ゾナー型の特徴は正の歪曲がやや強いことと、コマ収差が比較的良く補正されていることだ。このためその明るさにも拘らず、その当時としてはシャープで力強い絵を作ることができた。ゾナー型はバックフォーカスの短さから、一眼レフカメラが主流となった戦後は急速に廃れていったが、今でも中望遠クラスのレンズにそのバリエーションを見かけることが多い。



    Contax II + Sonnar 2/5cm. F2 1/2. ILFORD DELTA 400


    Sonnar 2/5cm, collapsible

     この新参者の攻勢に対し、翌1933年ライツは早くも防衛策を打ち出した。低速シャッターを装備したライカDIIIの登場と、ズマール2/5cmの投入である。いわゆるダブルガウスタイプのズマールが、なぜトリプレットの変形ではなく、リーのオピックレンズに端を発するこの途を採ったのか詳らかにしないが、マックス・ベレクにはガウスタイプについての論考も多くあるから、慣れた手法によったのかもしれないし、あるいはゾナーによってトリプレットの行く先を指し示された結果、否応なくガウスタイプの展開を模索したがゆえの論文の多さかもしれない。いずれにせよ、ライツとベレクがガウスタイプを選択したことは、この時点でまだ幾分かの制約事項(例えば界面反射の問題)を伴っていたとは云え、大口径レンズの発展について先見の明を有っていたとも云えよう。

     ライカ判カメラにおける最初の本格的なダブルガウス型のレンズ、ズマール2/5cmは、しかしそのライバル(ゾナー2/5cm)に対して空気境界面が8つもあるというハンデを背負っていた。コーティングのない時代、この空気界面の存在は画質に悪影響を及ぼすフレアの原因として忌まれており、一面につき約5%の光が失われるか乱反射するため、8面ともなれば半分近くの入射光量がフィルムに正しく到達しないことになる。ツァイスはこの界面数に制限を設けていたと思しく(例としてヘラーの設計手順)、ビオゴンとオルトメターを除く戦前のコンタックスレンズはすべて6面以下だった。ゾナーがその驚くべき鮮鋭度と明るさを有ちえたのも、「貴方のカメラの鷹の目」テッサー同様、6面に抑えたお陰でもあった。

     このハンデにも拘らず、しかしズマールは12万本を売った。ヘクトール2,5/5cmが1万本に満たなかったことを考えると、ただ単に明るかったがためだけとは思われない。実際空気界面による損失量を考慮すれば、ズマールの開放F値は2,8に近かったはずである。今日残るズマールの多くは、フロントエレメントの硝材が柔らかいせいもあって状態の悪いものばかりで、このため新品当時の性能を発揮し得ていない。このような個体の写りの悪さがズマールの評判を落としているのだが、それはベレクの思いもよらないことだったろう。コンディションの良い、あるいは後世再研磨コーティングされたズマールの写りは決してゾナーに劣るものではない。確かにシャープネスでは一歩を譲るとしても、画面全体に亘る穏やかで繊細な描写は他の何ものにも代え難いはずだ。ライツ──ベレクの選択は間違ってはいなかった。それはズミタールを経てズミクロン2/50において完全に証明される。



    Leica M3 + Summar 2/5cm. F4,5. ILFORD DELTA 400


    Summar 2/5cm, collapsible

     ところでここにもう1本の2/5cmレンズがある。クセノンではない。フェド2/50、すなわちハリコフのフェリクス・エドマンドヴィッチ・ジェルジンスキー・コンミューンで開発(模倣)された35ミリ小型カメラの高速レンズだ。フェドの小型カメラ──コンミューンの名前を採ってフェド(フェト)と呼ばれる──は1932年に発売されたライカDIIをベースにコピーされたものと云うのが通説だが、それは一部において間違っている。確かに今日良く知られるフェドはライカDIIの外観をもっており、量産品においてDIIを模倣したことは事実だが、それに先行するフェド・オリジナルの写真が存在し、これはライカA型のコピーなのだ。その決定的と云えなくもない状況証拠がある。すなわちフェドのフランジバックはDIIのそれと異なるのである。

     ライカA型がレンズ交換式のC型になったとき、実焦点距離のばらつきに由来するボディとレンズの組み合せの限定があったことは周知の事実だ。つまり、フェド・コンミューンは最初手に入れたライカAの寸法に基づいて最初のフェド・オリジナルを制作したあと、ライツがフランジバックを28,8ミリに統一したことを知らずにライカDIIの外観と距離計機構だけを模倣した。こうして基準焦点距離が51,6ミリではなかったライカAをベースにしたライカDIIのコピー、フェドが出来上がったのだ。フェドのフランジバックはおおよそ28,3ミリである。フェドの標準レンズ、フェド3,5/50(インダスター10)の実焦点距離を厳密に計測すれば、さらに詳しいことが判るだろう。

     さて、フェド2/50だ。一見しただけでズマールを参考にしたと判る。4群6枚のダブルガウス型構成で、硝材のインデクスまでは詳らかにしないが、ほぼズマールもどきと云っていいだろう。鏡胴の造りは固定鏡胴、沈鏡胴いずれのズマールとも似ない。あえて云えばエルマーとズマールの相の子だろうか。開放では強いフレアを伴い大変甘い描写をする。だがもともとの素性が良いのだろう──ズマールのデッドコピーならなおさらだ──シャープネスは絞ったところでさほど改善されないまでも、ソフトで細やかな描写は好ましいものだ。ゾナーが少し絞ったところから強烈なシャープネスを見せつつ、決して硬くはない──この点、戦後のニッコール2/5cmは硬い──優秀な描写をするのとは好対照だが、いずれのレンズもシャープに写るだけが能ではない、現代のレンズが失ったあるものを再認識させてくれる。



    FED + FED 2/50. F3,2. ILFORD DELTA 400


    FED 2/50, collapsible

     ライカDII似のフェドは1935年頃に登場したが、フェド2/50を始めとする交換用レンズが現われたのは1938年も終わり頃だった。翌年にはソ連は交戦状態に入り(ポーランド占領と冬戦争)、その2年後には大祖国戦争が始まってしまうため、これら交換レンズの数も種類も少ない。やがてドイツの敗戦とツァイス資産の継承が戦後のソビエトレンズをツァイススタンダード一辺倒にさせてしまい、ビオターの後継であるヘリオスを除いてダブルガウス型の標準レンズは長い間姿を消してしまった。最新のガウス型レンズのコピーと思しいヘリオス94が戻ってくるのは、1970年代に入ってからである。


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    Text and Photo : (C)2005 Takanashi_Yoshitane.
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