◆ ゾナー2/85の顛末

      最近どういうわけか雑誌のネタとかぶることが多いのが気にかかる。今回もこの原文を書いたあと、3本のハチゴゾナーの試写なんかしてるうちに、写真工業誌2004年5月号で85ミリレンズ特集をやられてしまったので、後出しみたいで面白くないのだが、主旨は別のところにあるからまあいいや。

     1933年に小型カメラコンタックスの中望遠レンズとしてリリースされたゾナー2/8,5cmは、その登場当時から驚異と賛嘆とに彩られた伝説のレンズだった。それまで小型カメラの中望遠(長焦点)レンズで明るい玉と云えば、ライツ・ヘクトールの1,9/75があったが、当時の評判はそれほど良くはなかったらしい。むしろ純正テッサータイプで無難に抑えたエルマー4/90のほうが評価は高かった。ツァイスもコンタックス用レンズとして8,5サンチのF4トリオターを投入し、これは現代でも十分使用に耐えうる玉だ。
     開放値F2というのは現代でも明るい部類に入る。ズームレンズは別として、標準レンズ以外の単焦点玉の多くは開放F2,8から4であり、F1,4を謳っているのは大体最高級のレンズ、その場合必ずと云っていいほど同一焦点距離で廉価な暗い玉が存在する。ライツでは戦争中にズマレックス1,5/85を送り出して、少なくとも明るさの点でツァイスを凌駕することができたが、総体としては劣勢にあったようだ。



    Sonnar 2/8,5cm T Sonnar 2/85 T
     距離計連動式カメラの8,5サンチゾナー、通称ハチゴゾナーは、前年に発売されたゾナー2/5cmの発展型で、実質焦点距離も85ミリと云われているから、その対角線画角は大凡28度になる。3群6枚構成、空気界面6つのゾナータイプはコーティング技術が確立していなかった時代、コントラストと抜けの良さで一世を風靡した(ちなみにヘラーの設計経緯を見ると、ツァイスは空気界面6面以下を小型カメラ用レンズ設計の拘束条件としていた節がある。かのビオゴンは8面だったが……)。この「舞台用ゾナー」はコンタックスユーザーにとってF1,5のゾナーと同じく憧れのレンズであり(ついでに価格も同等の330ライヒスマルクだった)、万能の中望遠レンズとして小型写真術の世界に君臨するはずだった。それを許さなかったのは当時の世界情勢である。
     1939年に始まった戦争は、最初の3年間を戦捷に次ぐ戦捷で飾られたが、ドイツの台所は火の車だったようだ。物価統制と輸出入規制がカメラを市民生活から遠ざけ、なかんずくPK部隊を専門に組織していたドイツ宣伝省の号令で、出荷されるカメラとレンズのほとんどが軍務にかり出されていった。こうして1945年2月のある夜、ドレスデンはのちのヒロシマを上回る災禍に見舞われて文字通り灰燼に帰し、8月のソ連軍進駐を俟つまでもなくツァイス・イコンは潰滅した。カール・ツァイス・イエナが蒙った打撃はそれよりも少なかったが、いずれにしろアメリカとソ連の双方のためにいったんは消滅し、すぐに東独ツァイスの拠点として蘇る。
     戦時中に生産されたレンズの多くは軍事用途のためTコーティングが施されており、また種類も限られている。ハチゴゾナーが軍事的にどれほど需要があったかわからないが、それなりの数のTコーティングレンズが発見されており、結局のところこの辺りの消息は依然として不鮮明なままだ。戦争中に誕生してそのまま「出征」したほとんどの機材は、部隊もしくは所有者と運命をともにしたか、戦利品として連合国やソ連軍兵士の手に渡っただろうし、無事ドイツ国内に残ったカメラやレンズの多くは、戦前から彼ら市民の手許にあった機材のはずである。ひとつ例外があるとしたら、それは結局出荷されずに工場に残された完成品または未完成品である。270万台以降300万台未満のいくらかのレンズは、こうして戦後になってソ連に接収されたか再出荷されたものだろうと推測されている。



    Sonnar 2/85 Contarex Sonnar 2,8/85 QBM Sonnar 2,8/85T* Y/C
     敗戦のあと、光学帝国カール・ツァイスは東西に分断された、という悲劇風の常套句は、しかし正しくない。新思想にかぶれた息子がイエナの屋敷を出奔して、オーバーコッヘンの片田舎に分家を構えた、というのが適切な表現だろう。その分家が半世紀後に本家を乗っ取るのである。それはともかく、本家、すなわち東独ツァイスは暫くハチゴのゾナーをコンタックスあるいはキエフ用に生産していたが、1950年代にはキエフレンズのソ連における生産も軌道に乗ったため、すべてのコンタックスマウントレンズの供給を停止して、新時代のシステムカメラ、一眼レフコンタックスのためにラインをシフトする。
     一方の分家、つまりツァイス・オプトンは戦中期のハチゴゾナーをリファインしながら、自らの新型コンタックスのために生産を続けていたが、それもコンタレックスの登場までだった。 戦後東西のツァイスでは知られる限り、M42マウントのハチゴゾナーは生産されなかったと思われる。一眼レフ用としては唯一コンタレックスマウントのゾナーがあるだけで、ローライSL35QBMマウントでもヤシカ(京セラ)コンタックスマウント(Y/C)でも、供給されたのはハチゴはハチゴでもF2,8のコンパクトなゾナーでしかない※。それも第2群トリプレットのまんなかのレンズを再び空気間隔に置き換えた、元祖エルノスター=ゾナータイプに回帰したコンパクトなレンズであった。

      ※コンタフレックス126用に用意されたハチゴゾナーはF2,8である。極めて実用性に乏しいシステムのため実物を確認していないが、その構成はおそらくQBMゾナーと同じだろう。

     その後のツァイスにおける焦点距離85ミリの大口径レンズは、扱いにくいが使いこなせると他に代え難くすでに伝説と化したF1,4と、解像力信者に高い人気を誇る上に市場価格も飛び抜けて高いF1,2の限定版、2つのプラナーが担当することとなった。F1,2は採算度外視の気まぐれだったとしても、F1,4のほうがツァイス・イコンの臨終間際にコンタレックス用として生産が開始され、すぐにQBMへシフトしてY/CさらにはNシリーズまで改良を続けていったことを考えると、ポートレイトゾナーの西側における歴史は、1960年代とともに終焉を迎えるべくして迎えたのだ。



    1933年Contax用最初期 1959年Contarex用
     ところでゾナー2/8,5cmには、オーバーコッヘンで第2世代が誕生する前にも大きな変更が行われている。最近の研究では、恐らくその時期は欧洲大戦直前か戦争中だということだ。キエフ=コンタックスレンズの誕生に付帯して取沙汰されるような戦後の改良ではない。実際のところ250万台以降のレンズでは、元来貼り合わせダブレットだった後群が貼り合わせトリプレットに変わっており、戦後ソ連で「再生産」されたユピテル9は、戦後賠償も兼ねてイエナの経験と技術力を動員して生み出されたものだから、その後群ももちろんトリプレットだ。この改変がどういう差し迫った理由で行われたのかは寡聞にして知らないが、ハチゴゾナーの泣き所でもある斜光条件による開放付近の画面中央部フレアはさほど改善されていない。
     ちなみにゾナーを参考にしたと思しい日本光学のニッコールPC(2/8,5cm)の後群は凸の単エレメントであり、18サンチゾナーと同じ群配置になっている。こちらはゾナーのようなフレアは起きない。先の戦中期のゾナーは単層とはいえすでにTコーティングされているので、そちらの問題ではあるまい。



    ЮПИТЕР-9 Kiev ЮПИТЕР-9 M39 ГЕЛИОС-40-2 M42
     西のツァイスがコンタレックス用に最後のハチゴゾナーを洗練させていた頃、東のツァイスは85ミリという焦点距離をきっぱりと捨て、35ミリ判の中望遠レンズラインナップは戦前からあるビオター1,5/75、テッサー2,8/80(これは評判が悪かった)、それにビオメター2,8/80に続くパンコラーの2種類(幻の1,4/75と名玉の誉れ高い1,9/80)によって占められた。これだけ多くの長焦点レンズが作られたのにも拘わらず、不思議なことに1990年の最後のときまで、東独ツァイスはこの焦点距離を復活させなかった。
     鉄のカーテンの東側でハチゴゾナーの延命を図ったのは、ソ連である。いま、ユピテル9のラインナップを眺めてみると、キエフ=コンタックスバヨネットマウントに始まり、LTM(ライカネジ式)、M39(初期ゼニット)、M42、ペンタコンシックスなど各種のレンズマウントで生産されるくらい、大人気だったことが判る。長い──ドイツの敗戦から数えると45年間──生産期間のうちに、なんらかの光学的改良が加えられた可能性は排除できないが、コンタレックス用ハチゴのような劇的な性能改良は見受けられない。むしろ彼らはレンズをもう1段明るくすることに心血を注いだとみえ、1960年代にその成果を市場へ送りだした(ヘリオス40、のちに40-2。1,5/85)。本レンズはその名称からも判るようにガウスタイプの一種だ。このゾナータイプからガウスタイプへの変更は、世界の潮流にそったものであっただろう※。ユピテル9はそれでもソ連最後の日まで生産され続けたが、それは最後の──標準レンズからとっくにゾナータイプは消え、僅かに生き残ったゾナー銘のレンズは元祖エルノスタータイプである──純血種のゾナーだった。

      ※2004年新生ツァイス・イコンのゾナーT*2/85ZMはどうやらガウスタイプになってしまったみたいだ。

     それにしても東独ツァイスは、ユピテルシリーズがあったためにわざと85ミリの中望遠を出さなかったのだろうか。あるいはパンコラーシリーズに未来を見いだして、古いレンズの改良などに余計な労力をつぎ込まないことを選んだのか。かくてコンタレックス用ゾナー2/85は、われわれが手にすることのできる最後の、そして最高の、ハチゴゾナーとなった。


    PORTICVS-indexへ戻る
    Text and Photo : (C)2004 Takanashi_Yoshitane.
inserted by FC2 system